エネルギー節約による規制は乗用車に集中したが、それは前述した45%のうち、乗用車の燃料消費が全米稔消費の30%以上と、最大の割合を占めていたからだ。
この燃費規制は、各自動車メーカーの生産するあらゆる乗用車の台当たり平均で算出され、各年度の基準に達しない時には、罰金が課されるという厳しいものでもあった。
このエネルギー節約法による燃費規制が、ビッグスリーの新車開発と製品戦略に与えた影響はきわめて大きかった。
やがてビッグスリーは、その重い腰を上げて、大型車のサイズダウンとサブコンパクトクラスの小型車の導入に踏み切らざるをえなくなるが、当初は必死で抵抗した。
当時のビッグスリーは、燃費節約は、燃費規制目標値の30%が達成可能なギリギリの数字だと主張するほどだった。
なにしろこの規制が本格化すれば、ビッグスリーは8割以上の利益を稼いできた大型車中心の路線を実質的に放棄しなければならず、それに加えてモノコックボディーや前輪駆動、小型エンジンなど、それまでビッグスリーがほとんど手をつけていなかったコンポーネントとこれを使った小型車の生産を増やさなければならない。
ひらたくいえば、儲かる大型車を止めて、儲からない小型車を増やすことをやらざるをえないことになるからだ。
また当時、大型車のサイズダウンと小型車の導入には、合計すると、GMだけでも600億ドルの巨費が必要とされていた。
製品開発の見直しと設備投資、とくに治工具類の全面取り替え、部品設計の完全な見直しには巨額の費用がかかるからだ。
しかし連邦政府当局は、トヨタ、日産が抵抗した日本版マスキー法による公害規制を、日本のホンダがCVCCエンジンでクリアした事例もあるのだから、ビッグスリーもイノベーションで燃費規制をクリアできると判断し、燃費規制が実行されたのである。
ところでビッグスリーは、一種の行政命令でスタートした燃費規制に対して、なるべく時間稼ぎをして、ソフトランディングで規制をクリアしたいと思っていたのだが、その思惑が完全に外れる市場環境の激変が、第2次石油危機を境とする1979年から81年にかけて起こることになる。
それは、この時のガソリン価格が1ガロン60セント台から、2年足らずの間に2倍以上となり、消費者意識も大きく変化して大型車離れが急速に進んだことである。
そして78年にコンパクト小型車の比率が43・6%だったのが、80年の第1四半期には63・9%と完全に逆転してしまっている。
この第2次石油危機の時は、第1次危機の時と違って2桁インフレを防ぐ目的もあって、金融引き締めと消費者信用規制が行なわれた。
そのために、自動車の買替えが減少し、80年にはデトロイトを中心として自動車不況が起こった。
この時は、総需要の減退するなかで大型車がさっぱり売れず、小型車ならよく売れるという新しい現象が見られた。
こうした自動車不況のなか、ビッグスリーの一角で経営基盤の弱かったクライスラーの倒産危機と、日本車の急増という大きな事件が起こるのである。
80年代日米自動車摩擦の知られざる背景日本車のシェアは、第1次石油危機を経た70年代後半には、10%以上の市場シェアを占め、じりじりとその割合を上げつつあったが、第2次石油危機になると、いっきょに25%へと急上昇を遂げた。
これは日本車のほとんどがサブコンパクトクラスの小型車であり、燃費効率にすぐれていて、例えば1978年当時、燃費規制が始まる前の平均的なアメリカ車の燃費効率は、78年のRH標値18MPGよりも低く、13MPG前後だった。
対して日本の小型車は、25MPGと85年の最終目標値に近づいていた。
当時のアメリカの大型車は、ガスギヤズラーカー(ガソリンをたれ流す車)のニックネームで呼ばれていたくらいだから、この一事をもってしても、燃費の悪いアメリカ大型車が、いかに多くのアメリカ消費者大衆からの支持を失っていたかがわかる。
この燃費に加えて、アメリカ車の評判を落とした第二の大きな原因は、品質の問題である。
60年代以降、とくにGMのコンパクトカー〝コルベア″の欠陥車問題以降、アメリカ運輸省は高速道路安全法を制定し、欠陥車のリコール制(車の欠陥が判明したらすぐに届け出て公表し、メーカーの責任で修理や交換を義務づける制度。
HH本にも昭和40年代に導入された)がスタートし、米国車のリコール件数は、むしろ増えている。
さらに、欠陥車にまでは至らなくても、米国車のちょっとした不具合や故障も増え、トータルとして見た品質水準は、年々低下する傾向にあった。
70年代後半頃、アメリカでよく聞かれたエピソードにこんなのがある。
アメリカ人は、あちこちでパーティを開くことが多いが、話が米国車の品質の悪さと故障の多さ、そして修理サービスの悪さに及ぶと、われもわれもと人だかりができて自分の経験を話題にすることが多い。
その逆に日本車を買った人は、燃費のよさもさることながら、故障の少ないことを賞賛することが多くなったという。
アメリカの消費者団体が実施している、500万人以上の読者をもつコンシューマーレポートには、いろいろなテストをやって車の品質にランクをつける欄があるが、当時から、日本車がいつも上位にランクづけられていた。
この他にも、車の初期品質についての消費23米国金融バブルに踊った自動車産業者調査で有名な1・D・パワー社の公表するランキングでも、すでに日本車の評価は高かった。
これは何よりも、米国車の品質管理に問題があり、品質の検査や品質を生み出す工場の生産システム、労使関係に問題があるためで、これについては次の章で詳しく述べることにする。
いずれにせよ、80年初頭のデトロイト不況でクライスラーは実質倒産、フォードは大赤字、GMだけがかろうじて黒字を出すが、大幅な利益減退となった。
これは消費者が、大型車中心の米国車を見放し、日本車を中心とする小型車が急激に脚光を浴びたためである。
その結果、米国車がさっぱり売れず、工場の閉鎖やレイオフが相次ぎ、日本車だけが快進撃を続けるという、いわゆる日米逆転が起こったのである。
米国の自動車市場は、78年頃までに1000万台を突破していったが、前述の不況の影響で200万台以上の減少となり、その減少分のほとんどが米国車、それも大型車に集中したのだった。
それから後の経過は、ドラマチックな激変の連続であった。
まずクライスラーの倒産危機があり、この時には政府が救済に乗り出して15億ドルの信用保証を行なって破綻をなんとか防いだ。
最大の救済理由は、クライスラーが倒産すれば10万人あまりのクライスラー従業員だけでなく、サプライヤーや関連産業からも失業者が生まれるからである。
それを合計すれば、数十万人に上り、放置すれば社会問題が起こる。
その後のクライスラーは、フォードの社長だったリー・アイアコッカのリーダーシップの下で80年代半ばまでには見事に立ち直り、政府保証融資も完済している。
筆者は81年5月、クライスラーがまさに倒産寸前にあった時に本社を訪問し、フォードから移った副社長デノメ氏にインタビューしたことがある。
今もその時の光景を思い出す。
デトロイトのすぐ隣のハイランドパークの本社には、77~78年にかけて何度か訪問しており、いろいろな人の出入りがあって、多忙で活気に満ちていた。
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